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被爆6日目に出血 灰を油にまぜて背中に塗る 原爆を背負って(8) - 西日本新聞

 戸板にうつぶせに寝たまま、道ノ尾駅の軒下に降ろされました。岩屋郵便局の人が持ってきてくれたにぎり飯を口に運んでもらいながら、救援列車を待ちます。原爆が投下されて3日がたっていましたが、駅は負傷した人であふれ返っていました。

 到着した汽車から降りてきたのは腰に剣を提げた白い軍服姿の軍人。私を見てふびんに思ったのか、乾パンを差し出しました。私たちが食べていた黒くて粗末な物とは違い、見たこともないきれいな乾パン。「こんないい物を食べてやがったのか」と無性に腹が立ちました。

 そうこうするうちに作太郎じいさんが駅に現れました。8月9日から私を捜し歩き、岩屋郵便局に偶然寄って居場所を知ったそうです。私を見て、「大丈夫。たいしたことはないんだ」と繰り返していました。じいさんは私に付き添って汽車に乗り、一緒にいた近所のおじさんを家に知らせに走らせました。

じいさんの罹(り)災証明書。これを示すことで列車に乗ることができた

 諫早駅で降ろされ、リヤカーで運ばれたのが諫早国民学校。治療を受けられると聞いていましたが、実際は治療という治療はなかった。たくさんの負傷者がおり、亡くなった人が次々に運び出されていきました。

 被爆して6日目、背中がじわじわと痛み、左腕から血がにじみ始めました。原爆で背中と左腕全体を焼かれ、右腕はひじから上、左足は太ももの外側とかかと、尻も一部をやけどしていた。今考えれば、出血する血液がなかったんだと思います。

 翌15日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦を迎えます。ラジオからガーガーと音が鳴り、誰かが「戦争が終わった」とつぶやきました。でも何も感じなかった。自分はいつ死ぬんかなぁと考えていたのです。

 数日後、諫早にいても治療が受けられないからと、じいさんの親戚を頼って長与に運ばれました。会ったこともない遠い親戚でしたが、本当に良くしてくれた。新聞紙を焼いた灰を油にまぜて背中に塗り、もち米で作ったおかゆや、柿の葉を煎じたものを飲ませてくれました。

 9月10日前後まで長与で過ごした後、長崎市に戻ることになります。勤めていた長崎本博多郵便局の近くにあった新興善国民学校。そこに特設救護病院が設置され、県内外から集まった医師らが治療を続けていたのです。先の見えない治療生活の幕開けでした。(聞き手 久知邦)

◆   ◆   ◆ 

 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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July 15, 2020 at 09:02AM
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